花の次郎長三人衆 ああ梶原景時公 ああ信康 青葉の笛
資料 田口英爾 ナレーション 白井勝文
今、聞こえている浪花節の主人公が、皆さんご存じ、街道一の親分と言われた清水の次郎長。次郎長が生
きた時代は、江戸から明治にと日本が大きく変わる時代であった。この物語りの原作は行方不明になった
肉親を 捜し求め諸国を遍歴し、次郎長の養子となった天田五郎。次郎長の武勇伝を聞き書きし、東海遊
侠伝として出版。それをもとに、浪曲師・広沢虎造が工夫をこらして唸り、一躍、清水次郎長の名は全国
に知れ渡るように。
清水次郎長が晩年に建てたのが、皆さんがお入りになった『船宿末広』。当時、博打渡世の人 たちを侠
客と呼び、清水次郎長は東海一の大親分と言われた人物。これから、その彼の波乱に満ちた人生 を紹介
するとしましょう。
清水の次郎長
まだ、今のような近代的な港ではなかった清水港。その中心あたる巴川の河口近く。 次郎長通りと呼ばれ
る商店街の一角、美濃輪に住む三右衛門の子として、1820年・文政3年に生まれたのが、清水次郎長こ
と本名・山本長五郎。父三右衛門は薪や炭を商う船持船頭でしたが、天候を気にせず船を出すので、
「雲不見」の三右衛門と呼ばれ、向こうっ気が強い性格であった。米屋の甲田屋を営む叔父・次郎八の養子
に出されると悪童ぶりを発揮。その悪童ぶりに子どもたちは、米屋次郎八のところの長五郎ということで次
郎長と呼ぶようになる。のちの街道一の親分と呼ばれる清水の次郎長の名はここからはじまった。
1834年・天保5年。次郎長・15歳。性来の悪ガキの気質。清水湊でこつこつ生きるよりも、江戸に
出て一旗あげようと、家の金四百五十両を持ち出し、その内の百五十両を、裏庭の木の根に埋め旅に出る
がすぐに三島の宿で捕まってしまう。百五十両も足りないことに怒った叔父・次郎八から勘当されるそこ
で、次郎長は捕まることを計算し、埋めておいた金を持ち、今度は東の江戸ではなく西の浜松に向かう。
時は天保飢饉、米価は連日高騰をつづけていた。そこに目をつけた次郎長は、父親の代理と名乗って米を
買い付け 米相場で大儲け。大金を持ち清水に戻った次郎長は、金を返し勘当を許してもらうのであった。
ここに、状況判断と予測に長け、先見性を持つ、のちの街道一の大親分・清水次郎長という人物の器が見
えるのである。
翌年、養父次郎八が病で亡くなり、人が変わったように家業に精を出し真面目に働く次郎長。任侠に生き
た清水の次郎長の唯一の、勤勉で平凡な一市民の時代であった。
ある日の夜、家業に精す次郎長の家に突然、強盗が押し入る。格闘の末、ひん死の重傷を負った次郎長に
性来の気性と、旅の僧に『おぬしは25才までの命』と言われた言葉が蘇る、どうせ生きるなら、あたり
まえよりも思い切ったことをやって暮らす方がましと考えた次郎長は23才。ここから、身を任侠の側に
寄せての、暮らしが始まる。ある時次郎長は、インチキ博打を発見し、喧嘩のもつれから相手を斬り、巴
川に投げこでしまい、はじめて人を殺す事になる。あとで判明するが、2人は死んでいなかった。
この一件で、家業の米屋を姉夫婦に譲り、無宿者となった次郎長。 彼を慕う仲間と一緒に、プロの博打ち
としての修行を積みながら旅暮らしを続けるのであった。
27才のとき、清水に戻った次郎長に飛び込んできたのが、甲州津向の文吉と、駿州和田島の太左衛門が庵
原川で対峙しいているとの話。任侠の世界では、喧嘩の仲裁がうまく収まれば一気に、名を売り出すチャン
ス。持ち前の向こうっ気の強と度胸で、これをうまく仲裁。この庵原川の仲裁は、次郎長の名を世間に一気
に押し上げた事件であった。
弘化4年・1847年。追われる旅暮らしから清水に戻った次郎長。江尻の大熊の妹・おちょうと結婚をし
清水仲町の妙慶寺前に世帯を持つが、あいかわらずの義理と人情、斬った張ったの旅暮らしの毎日が続く。
その結果、というのもおかしいが、持ち前の度胸と向こう気の強に加え、予測と先見性にも磨きが掛かり、
侠客清水次郎長の名は、東海道に知らぬものがないと言われるほど、知れ渡たる。
さて、次郎長一家と言えば大政・小政に増川の仙右衛門、吉良の仁吉と強者たちが揃っているが、次郎長
が街道一の大親分と知れ渡った事件は、いくつも語られている。とくに有名なのが、荒神山の決闘。利権
争いに絡む黒駒一家の大親分を打ち負かし見事おさめ、次郎長47才。斬った張ったの時代の最後を、次
郎長は飾るのであった。
大政 増川仙右衛門
慶応4年・1868年。錦の御旗を掲げた官軍が、江戸に向かって進む。明治という新しい時代の夜明け
官軍は駿府城に布陣したが駿府町奉行所はすでに解体され、治安を守る警察がいないという状態であった。
すでに50に手が届く次郎長のところに、府駿府差配 役の伏谷如水から出頭命令が来る。不穏な状態を
治めるには真の実力者でなければと、次郎長は街道警護役、すなわち警察署長を命じられる。人生の大半
を博徒暮らしに生き、実に27年間。 常に任侠のなかに身を置いていた次郎長は、これを境に180度、
生き方を変えるのであった。
伏谷如水に呼び出しを受ける次郎長
新しい年号になった明治元年。 江戸城から駿府城に旧幕臣たちが清水港に移住。次郎長は、炊き出しを行
い救援の手を差し延べていた。9月18日。次郎長の、義理と人情に生きた気質が沸々とたぎる、事件が起
るのであった。清水港に修理の為入っていた幕府の軍艦・咸臨丸が官軍から襲撃され、官軍は倒れた兵の死
体をそのまま海に置き去り。『賊軍に加担するものは断罪に処する』のお触れを恐れ、誰も死体に手をつな
い状態であった。そこで次郎長は、『人間は死んでしまえば皆、仏様だ。仏に官軍も賊軍もあるものか』と
海に浮かぶ死体を引き上げ手厚く埋葬するのであった。
砲撃を受ける咸臨丸
このことを聞いた、駿府藩の幹事役をつとめる山岡鉄舟が感激し、墓石に『壮士墓』と揮毫をする。以後、
次郎長と山岡鉄舟の男同士の深いつきあいが始まり、山岡鉄舟は次郎長の心意気に感服しのちに
『精神満腹』と揮毫た額を送る。『咸臨丸事件』と呼ばれるこの来事の処理は、予測感覚と時代を見る目、
それと近代的な感覚を持った次郎長という人物の考えが浮かび上がる。このあと次郎長は、社会事業に目
を向けるのであった。
明治7年・1874年。次郎長は、ときの静岡県知事のすすめもあって、二千円の助成金で、富士山麓の
開墾を始めることになる。 水も出ない荒地の厳しい開墾であったが、養子となった天田五郎が采配を振
るい、76町歩を開墾。 開墾された富士市大渕の地は、次郎町と名づけられ今も残っている。
明治8年・1875年。次郎長は新しい時代の幕開けをいち早く察知し、港の整備が必要と、回船問屋の
経営者たちを説いて回わる。それは、予測と先見性に長けた次郎長と言える。そして向島に波止場の建設
が始まり、蒸気船3艘を持つ海運会社、静隆社が設立されさらに次郎長は何度も横浜に出掛け、輸出茶の
商人たちと静岡の茶商、清水港の回船問屋を結びつけ、清水港と横浜港の定期航路を誕生さるのであった。
こうして、静岡のお茶は清水港からアメリカに輸出、やがて清水港は日本一のお茶の輸出港となる
晩年次郎長は『これからの若者は、英語を知らなきゃだめだ』と近所の若者を集め、静岡学問所出身の若
手教師を招き、英語塾を自宅 の一室で始める。その、次郎長英語塾で学んだ三保村川口源吉は、ある日
横浜から貨物船に乗ってハワイへ密航。船のなかで英語を役立てのちに源吉青年は、ハワイで大成功を
おさめるのであった。次郎長の英語塾は国際化に一役買ったのである。
明治19年・1886年。次郎長すでに70才。波止場近くに船宿『末広』を開業。好々爺として子ども
たちと遊ぶ日々であった。末広には清水港に入る軍艦の将兵たちが出入りし、そのなかには後に日露戦争
で活躍した広瀬中佐もいた。次郎長は彼らに、自分の若い頃の武勇談を熱っぽく語るのであった。ちなみ
に、最後の将軍・徳川慶喜公も度々訪れている。 明治26年・1893年。清水次郎長は、3代目お蝶
に看とられ博徒としては珍しく、畳のうえで大往生を遂げる。享年74才。
三代目お蝶
東海遊侠伝のなかでも語られているごとく、米屋・甲田屋の長五郎として、家業にいそしだ青年時代の前半
性来のまっすぐな気質から、旅から旅への切った張ったの渡世人生に明け暮れた壮年時代。その次郎長の大
きな転機であった街道警護役。晩年は、世のため人のために、社会事業に打ち込んだ清水次郎長。みなさん
が知る次郎長さんはどんな人物でしたか。
清水次郎長の生涯プロモーションビデオは次郎長資料館「船宿末廣」に常設されております。
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